ノート

 ブログで書くのも、おかしな話かもしれませんが、私は手書きが好きで、愛用のMontblancの万年筆で最近、お気に入りになったツバメノートに、今流行りのモーニングページ(モーニングノート)に近い、日々の記録を行なっています。出来事を記録するのが日記ならば、このモーニングページというのは感情を記録し整理するものだと理解しています。思いつくままに、今、心に思ったことを赤裸々に紙に書き出すことでイライラや迷いなどの感情や何かやりたいけどモヤモヤしてどこから手をつけて良いかわからない思考の整理に役立つそうで、モーニングページが流行る前から、実行していたことです。書き殴る様に行などを意識せずにひたすら吐き出す様に書くのが良いそうですが、私はそういうのは、好きではなく、読み返せる程度の字でバランス良く書きたいと思う方で、字が汚いと逆にストレスになります。”ラテの乱れは心乱れ”という名言がありますが、まさしく、日によって、文字のバランスが変わってしまいます。自学するときのノートも同じですが、何度も消すことができるシャープペンシルを使うと、特に理数系のノートは何か問題を解いて閃いたりすると、消した後の黒ずみを含め、本当に汚いです。少しでも、解消しようと、方眼タイプのノートを使っていますが、これが一番、良い様です。マス目1つの中に日本語ならば1文字、英数字は2文字を書くということを決めて、1文字ずつ丁寧に書く。あと10分以内に書き終えなければならない等と制限をつけると、乱れるので、そういう時はできるだけ、書かない事にしています。時間制限のある書き物など、今の時代はないはずで、板書ですら写メで済みます。何かを考えながら書く場合は相当な時間を要するわけで、そもそも、思考中に時間は必要だし、理数系教科の様に、思考の過程で数ケースのTry & Errorを繰り返し書く必要がある場合は、先にノート以外のメモ紙か、雑記用の安いノートに鉛筆で書きながら考え、まとまったところで、まとめ用のノートに丁寧に書けば良いだけで何の支障もないはず。そこでノートには次の5つのタイプがある事に気づきました。手書きが必要なのは、考えてみれば、3項と4項だけで、3項は思考のプロセスノートと言っても良く、ここは手書きの方が良いですが、まとまってしまえば、2項はWordで良いのかなと思います。しかし、自分の思考があっちに行ったり、こっちに行ったりしている過程も記憶として残しておきたいと思うならば、3項をしっかり手書きで清書しても良いかもしれません。4項はこのブログの最初に書いたモーニングページであり、PCで打っても良いのでしょうが、PCでは”じっくりと自分に向き合えず、正直な気持ちに気付きにくい”という人や”読み返した時に、ワープロ文字では何だか味気ない”という人も居るかもしれません。確かにPCはこのブログの様に”人に伝える事を目的にした文章”を書くのに適しており、心を吐露するには役不足かもしれません。今日もいくつかのノートを書くと思いますが、できるだけ1文字ずつ丁寧に書きたいと思います。

1.ただ、何か書き写すだけのノート

これは今はほとんど不要なはずで、講義の板書を書き写している様な場合。

2.バラバラの書籍に書かれている情報を1つに纏め、自分の言葉でわかり易く整理するノート

これは、文理系共通で配置以外は思考が伴わず、機械的に作成できる。

3.2項以前に思考が伴い、疑問点や問題を明確にして、それを解決するノート

(1)文理系共通では、1つの書籍に書かれている内容が理解できない場合、2項に行き着く前にあれやこれや疑問点があり、それらを記録し、別の書籍を調べているプロセスを記録する場合。

(2)理系教科固有では例題や証明等を自分で解いているプロセスを記録する場合。

(3)仕事の場合はアイデアを記録する。

4.自分の感情を整理するノート(モーニングページ)

5.ただ、今日の出来事を記録するだけのノート。

4項と纏めるとプライベートは良いが、仕事の事を一緒に記録しづらいので分けている方が良い。

コロナ緊急事態宣言の根拠

 1都3県(東京、神奈川、千葉、埼玉)に2月7日までの緊急事態宣言が出す方針で決定しましたね。ここ1ヶ月の感染者数の増加傾向から判断すれば已むを得ないと思いますし、私はむしろ、決断が遅すぎたという声に賛成です。テレビで取り上げているので極端な例かもしれませんが、街頭のインタビューに答えている若い人の中には”自分は感染しても重症化しないので、普段通りに外出を控えることもなく、店が営業している限り、夜遅くまで遊びまわっている”と平気で答える人もいて、こういう他人の迷惑を顧みない若い人達には宣言や特措法で縛り、飲食できる場所や時間を制限し、遊ぶ場所を減らすというのは有効だと思います。街に活気がなく、ゴーストタウンの様になってしまえば、出歩く理由はなく、ただ、寒いだけなので、外出する動機や誘惑も減るでしょう。時短の対象になった店や施設には、国や地方自治体は、しっかりと時短による損失をお金で補填する制度の確立も同時に求められると予想し、最低限、そこはしっかりやらないと、成立しないと思います。しかし、私はそれだけでは不十分だと思います。なぜならば、三密にならず、飛沫感染も抑止できる対策が取れるという事で、時短対象になっていない店や施設を利用するお客さんも同時に減るわけで、店は開けている以上は補填もなく、逆に商売にならないからと店を閉めても、国がそれを命じたわけではないから、知らないと言えるとすれば、まるで”へびの生殺し”の様な状態を生む事は容易に想像できると思います。国が求められていることは”一旦、国民全員が不要不急の外出をしなくても良い環境を国が作り、感染拡大をこれ以上増やさない。”ということです。止めたいのは経済ではなく、不要不急の外出です。働く為に普通通りに会社に出勤し、密閉された会社の中で、ソーシャルディスタンスを意識しながらサラリーマンとしての活動を行う事は”不要不急の外出”と言わないでしょう。その人から見れば会社が休業していない以上、出勤するしかないはずなのです。会社自体が休業し、出勤しなくても、生活が保証されているならば、みんな、休みますよ。サラリーマンが毎日、多少、熱っぽく感じてもコロナ判定基準の37℃を超えてなければ公共交通機関を使って出勤している事実があるとすれば、それは感染の原因にならないと断言できますかね?そもそも、平熱は人それぞれですが、何℃を平熱として37℃以上という設定にしているでしょうか?熱は平熱より何℃高くなったかで、その人の体調は決まるわけで、36.5℃でも感染を拡大する人も居るのではないか?と思うわけです。私は長崎に暮らしていますが、徐々に感染は拡大しています。普通のサラリーマンですが、在宅勤務率を上げる努力をする様、指示は出ていますが、仕事に支障をきたす人は出勤して良いという甘めのルールです。Inputでは、むしろ、在宅勤務でネットの調子が悪く、指示された内容を聞き間違え、失敗しましたなんて言い訳をする人の方が問題視されます。また、Outputの方は、ネット環境では相手に伝わらないコミュニケーションしか取れない人もいます。そんな事ならば、出勤して働けというのが会社の指示です。勤務に支障をきたさない事が在宅勤務の条件だからです。本当に飲食関係だけが感染を広げていると言えるのでしょうかね?そういう影響度を特定する分析はやった上で飲食の影響度が大きいと判断するデータがあって、制限をかけているのでしょうか?本質は、店に感染を拡大する様な振る舞いをする客が来ているか、感染を拡大させないという意識が希薄な店があるかのいずれかではないのかと思うのです。遅くまで開けていて良いので席数を制限するとか、ルールを守っていない人を入店させないとか、席数の制限をはじめ、飛沫感染防止やソーシャルディスタンスをとる配慮など、感染拡大を抑止する為の最低限のルールを守らず営業している店は厚労省の権限で閉めさせる事ができる等の特措法で縛った方がより効果的だと思うのですが・・これはこれで人権侵害とか言われるのでしょうかね?経済活動を止めるというのはどうもおかしい気がするのです。止めたいのは感染させるかもしれないという意識の低い人ではないでしょうかね。

サンカ(山窩)

私も最近、知ったのですが、かつて大和朝廷から滅ぼされた、熊襲、蝦夷、土蜘蛛等と言った反体制の少数民族の一種で、サンカ(山窩)と呼ばれる民族が昭和までこの日本の山の中に戸籍も持たずに、生存していたという情報を得ました。同和問題や部落差別問題で取り上げられる、穢多(エタ)や非人の子孫の方々は生まれながらにして言われもない差別を受け、人として扱われない過酷な時代を過ごされた方々も多いと聞きますし、現代でさえ、まだ、特定のエリアに差別問題が残っているそうですが、その方々には、きちんと戸籍はあって日本人として認可されている点で、日本政府のサンカの方々に対する処遇は違います。まず、いつからこの方々が我々、日本人の先祖の系列から外れて、山で独自のライフスタイルや文化を形成して暮らす様になっていたのか?というのは諸説あます。一説には縄文時代の終わりから弥生時代の初期に日本に暮らす人達(あえて日本人とか国民という表現は避けます)の中にフラットな関係の縄文文化から上下関係のある弥生文化に移行できた弥生人と、自然と調和したライフスタイルでフラットな関係を維持したい縄文人に分かれ、弥生人の子孫が我々一般の日本人に、一方、縄文人の子孫が少数民族に分岐していったという説もあります。この分岐点が大きな時代の変わり目において、諸説あり、現代に近いところでは明治維新後という説まである様です。私は色々、情報を見ていく中で、彼らは、サンカではない日本人(弥生人の子孫)と自分たちの獲った物や手作りの生活品を農作物やお金と交換していたという事実があったり、使っている文字はサンカ文字と呼ばれる独特の象形文字で、サンカ同志は全く通じない言語(隠語という説もありますが)で話していたという事実から、縄文人説を信じています。私はこのサンガのご先祖様は、熊襲とか蝦夷の様な戦闘能力の高い少数の弥生民族ではないと思うのです。もし、大和朝廷の脅威になる様な武装集団であったならば、まず、中央政権に従わせる為の交渉があり、交渉の場では、大和朝廷から使者が伝える言葉の意味を解していなければならないし、返答もまた然りです。蝦夷の中には阿弖流為(アテルイ)の様に戸籍を持っていたかどうかは兎も角も、勝者側の大和朝廷が書き残した名前すらあります。つまり、蝦夷や熊襲は我々、日本人の先祖、つまり上下関係のある文化を受け入れた弥生人を先祖に持つただの反政府軍であり、”何か大和政権のやり方が気に食わないから従いたくない”という集団だからこそ、滅ぼされたのだと理解しています。サンカという特殊な言語や文化で戸籍すら持たない日本人が本当に弥生時代から昭和まで生存できていたとしたら、それは毒にも薬にもならない中央政権にとっては脅威でも何でもない民族だからこそ、捨て置かれた結果だったのではないか?と思うのです。分岐点が現代に近づくと今度は使っている言語や文化の面で矛盾が出てきそうです。流石に明治維新が分岐点だと仮定した場合、新政府のやり方に耐えらなくなった江戸時代の庶民が、いきなり山の中で独自の文字や文化を考え出し、自然と協調した暮らしを築いていたというのは考えづらいです。似たような民族にアイヌ民族の方々がいます。しかし、彼らはのルーツはその身体的な特徴から我々、日本人が属するモンゴロイドではなくシベリア南部に多いコーカソイドにあり、明治時代に統制されるまで別の意味で日本人扱いされていないし、地理的にも大和政権や幕府等の覇権もロシアから統制される事も免れたのだと想像します。旧石器時代から現代まで続いている民族という説もあり、ちょっとサンガとは違う理由で生存し続けてきたわけですが、言語や文字が明らかに日本語とは異なり、フラットな関係を良しとする点などは、縄文時代あたりから長らく生存してきた民族という点で共通している様に思うわけです。おそらく、アイヌも日本国の脅威にはなり得なかった為、長く生存したのだと理解します。失礼だなと思うのは、ドロップアウトした日本人がアイヌやサンカのふりをし、悪事を働いた例も多くあった様で、彼らのステータスを落としている点です。戦後になって、目撃例はなくサンガは姿を消したそうです。これが何を意味するのか?アイヌの様に既に現代人に同化した結果なのか?、日本人としても認められず、生活困窮者としてホームレスに紛れて暮らしているのか?密かに政府が集落を襲い、皆殺しにしてしまったのか?きっと自分はサンガの子孫であることを知っていても、明かすことはないと思うと残念です。あの縄文から弥生に移行するときに、現代までの人類の発展があった反面、人がヒト族たる、大事な掟を破り、破壊し尽くしてきたとも思うからです。それを取り戻そうとして、コロナは暴れ回っているのかもしれませんね。スペイン風邪もエイズもSARSも、多めにみてやったが、今度ばかりは愚かな人類を許さないという感じで猛威を振るっている様に私は思えます。

ツバメノートへ転身

 最終的にツバメノートA5サイズに落ち着きそうです。もっとも、インクフローが多く、EFで国産のFの太さのあるLammyでしかも石丸で購入したカクテルインクで書いて、裏抜けや滲みがなく、Montblanc146のEFで引っ掛かりがなく、さらに乾燥も早い。これ以上の紙質のノートはないかもしれません。万年筆ユーザとしては非常に、気に入りました。価格はAmazonで4冊で968円。1冊は30枚綴じで242円なので、60ページとすれば約4円/ページ。一方、LEUCHTTURM1917のA5サイズは1冊 251ページで3,190円なので、約13円/ページ。単純にページ数だけで比較すればツバメノートの方が3倍ほどのコスパの良さです。ですが・・このまま、紙綴じのツバメノートをカバンに入れて持ち歩き続けると、きっと、劣化します。そこでAmazonでCollasaroレザーノートを購入しましたが、Q&Aを見るとA5ノートを収納することができないと記載ありましたので、結局、返品しました。レザーノートとしてリフィルと一緒に購入する必要があった様なのです、好みのレザー調でモスグリーンだったので、非常に良いと思ったのですが、ツバメノートをカバーする事が目的なので残念です。これからカバーだけを購入しに行きます。あとはMonthlyのカレンダーシールが欲しかったので、以下のシールを購入しました。これは既にLEUCHTTURM1917でお試し済みであり、Montblanc 146では確実に滲む事がわかっています。スケジュールは変更が多いのでフリクションで書く方が良いのかもしれませんが、取り敢えず、多色ボールペンで記入していこうと思います。

LEUCHTTURM1917(ロイヒトトゥルム1917)

 万年筆でも裏抜けせず、引っ掛かりも少ない程よい綴じノートがないものか?と探していたら、バレットジャーナル信望者の妻からLEUCHTTURM1917(ロイヒトトゥルム1917)というドイツ製のノートを紹介してもらいました。妻が持っていたノートに少し試し書きをさせてもらって、これならば大丈夫と確信がありました。イタリア製のモレスキンノートの様に裏抜けせず、フランス製のRHODIAの様に開きにくくなく、日本製のLifeノートの様に裏抜けはないが紙が厚く引っ掛かり易くもない、これぞ求めていたノートだと、急いで長崎の老舗である石丸へ行き、A5サイズとA6サイズの両方を購入しました。税込で5,000円ちょっとでしたかね・・通常は方眼を選ぶのですが、あえて、妻が持っていたノートと同じドットを購入し、来年は、これを使い切るぞとワクワクして家に戻ってきました。まず、小さいA6サイズで試し書きしようと、書き始めたところ・・妻のノートで試し書きさせてもらった時とは違う、何とも文字のバランスが取りにくい違和感がありました。そして、何か引っ掛かりもあります。もっとも懸念していた、裏抜けは流石にないのですが、一言で言うと書きにくいのです。色々考えていると、字を書くときに紙面か机上におくべき右手の小指球(小指を正面から見て左側から下の方に降りた部位)が浮いているのです。A6サイズは紙面が狭いので当然、机上に小指球置いて、右手を安定させて書くべきなのですが、右側の紙面に書く時に何故か浮いている。コクヨの同じサイズのメモ帳で試してみたところ、そうはなりません。わかったのは186ページ綴じられたこのノートの約15mmの厚さに原因がありました。大体同じ大きさのモレスキンノートポケットサイズは6ページ多い192ページで厚さは10mm。この5mmの差が使い始めの数ページの頃は大きく影響し、机上と紙面の差でペンを傾ける事になる為、何か違和感があるのです。自然にペンを立てたくなり、それによって小指球が浮いてきます。新しい事もあって、180°に開いてくれないというのも多少あるのかもしれません。もう1つは紙の硬さです。裏抜けしない紙質である為か、厚くて、ペンが思うように滑ってくれないのです。システム手帳ではダヴィンチのリフィルやトモエリバーを使っているほぼ日手帳を使っていたので、比較的、薄めの滑りやすい紙質に慣れていて、わがままかもしれませんが、ある程度は滲んでくれないとぬらぬら感がなく、文字のバランスが取りにくいのです。これは使っているペンにもよるので一概には言えないのですが、私が使用しているMontblanc146のEFニブのインクフローでは確実に引っ掛かりがあって、ちょっと厳しかったです。と言う事で高い授業料でしたが、このノートは使わない事にしました。でも、時々、思い返した様に使いたくなるかもしれないので、少なくとも1年は保管しておきたいと思います。今日は大晦日で、もう、今日中に来年のノートを決める必要がありので、これから石丸に言って、ツバメノート、紳士なノート、場合によってはコクヨのいずれかを選択し、ノートカバーをかける事になりそうです。

あと一歩の気力

 ザ・シークレットを完読しました。”私は神がたまたま、2020年に50代の人間の男性として具現化しているだけで、神である以上、望んだ物は全て手に入るし、なりたいものにもなれるし、行きたい場所にも自由にいける存在である。”ということが、最後の最後まで色々な表現で繰り返し、書かれていた様に思います。禁煙セラピーを読んだ時の様に途中で洗脳された様に、共感し、そう思いこむ事ができた部分もありましたし、手に入ると信じるだけならば、それくらいは、自分にもできそうだと思いました。そこで、では、一体、何が望みなのか?と考えたところ、お金でも物でもなかったです。私が欲しいものは”何かをやろうとしていることを途中で、決して、萎えて放り出すことにならない様な情熱とか気力”。もっといえば”何かに集中して、空腹も疲労も忘れる様なフロー状態に陥る事”を望んでいると言うのがよくわかりました。いくら時間やお金があっても、それを余すことなく使う為には”情熱や気力”がないと意味がありません。”さぁ、なんでも叶えてやるから、望むもの言ってみろ”と悪魔に囁かれて、”働かなくても済むだけのお金”と答え、ぽんと3億円が手に入ったとしたら、もちろん、同時に膨大な自由時間も手に入ります。その自由時間を与えられて、何をやっても途中で投げ出してしまう様な気力しかなかったら、全く、楽しめないと思うのです。3億円だって、地道に使って行けば、40年くらいは繋ぐことができそうですが、それだって、生活費だけに地道に使う事ができる保証もありません。今は贅沢と感じることにでも、日常的に出費することに慣れてしまう可能性もあります。医者が毎日、お抱え運転手を指名して、2000円払ってタクシー通勤している様な現実は確かにあります。こういうことを考えているうちに、以前とは、考え方が変わりました。必要なお金を稼ぎ、若さを維持する為にも、社会と繋がりを持てる仕事は継続すべきという前提は変えず、仕事以外の時間をいかに楽しめるか?という事を考える方が現実的だと考え直したわけです。そこに不足しているのは、例えば”仕事が終わっても、きちんと2時間は数学の専門書を読むぞ”という目標を達成する為の”気力”でした。朝の筋トレやボイトレ、夕方のランニング、NHKラジオ英語学習、ギターで歌う等は先日ブログに書いた家事と同様、何かやらないと気持ちが悪い、あるいは、サボると何か悪いことが起きそうな罪悪感で継続できているのですが、ギターで歌う以外は”自分のやりたい事”とは言い難い物ばかり。”自分はこうなりたいから、これを毎日、勉強する。あるいは練習する。”というものが私にもいくつかありますが、上記のルーチンをこなせば、あとは”ワインを飲んで、寝るまでのんびりしたい”という事が全てに優先してしまいます。それだけ緊急度がないから、気力も湧いてこないというのもあります。”やりたいんだけど、別にそれができなくても、クビにはならないし、命も取られない。将来を左右し、リミットのある受験の様な目標でもない。”という目標に邁進できる気力が欲しいのです。おそらく、私がやっているルーチンの部分だけでも、毎日継続するのは厳しいという人も居るでしょう。私はあと一歩の気力が欲しいです。これが引き寄せの法則で手に入るならば、このザ・シークレットに書かれている事を実践してみる価値はあると思います。何事にも興味を持ち、前向きで、明日の事など考えず、その時にできる事を一生懸命やれていた、かつての私が持っていたものをただ取り返したいということだけなのですが・・少しワクワクしてきました。

夫婦共働きとは

 お坊さんほどは厳しくはないですが、私にはやるべき家事があり、長年継続しています。妻や娘と私は美意識が全く異なるので、自分が快適に過ごす為に家事を習慣化し、自発的にやる事でやらされ感をなくす様にしようと決めました。家事というのは、妻が1回しか今週、やっておらず、土曜日に遅くまで寝ているのに、何故、自分が3回もやらされているのか?とか言うと、特にフルタイムの共働きの場合は、夫婦関係が上手くいきません。また、勢い余って、自分のセンスで思春期の娘の部屋を勝手に片付け様ものならば、父娘関係も上手くいきません。自発的にやるのだけれど、決して、やってあげているアピールをしない事です。二度手間にならない程度に、さらっとやってしまっている事が大事です。朝、起きると、まず、洗濯物を畳み、洗った食器を棚に片付けます。これは妻がやって欲しいと言ったわけではなく、私が放置されているのが嫌だから片付けるのです。次に猫のトイレ掃除、餌や水の交換です。2匹の猫が何故か妻にはあまり懐かないのは、明らかです。これも、任せておくと忘れる。猫の餌は香りが大事であり、量が入っていれば良いというものではなく、交換する必要があるのです。火金は可燃物、木はプラ+資源ごみをまとめ捨てる。この捨てるは最近、私の在宅が増え、妻が出勤途中に捨ててくれます。掃除は土曜日にリビングと書斎は私が掃除機をかけます。ランニング後はできるだけ古いお湯で風呂を済ませ、2日に1回、風呂掃除をします。この時、排水溝の髪の毛などは彼女たちが掃除する事は絶対になく、ヘドロ状になるまで放置するので、ここも私が掃除します。これに加え、妻が管理職をやっている頃は夕食作りがあったのですが、彼女が管理職を終えた後はお返ししました。彼女は元々、料理とかお菓子作りは好きなのです。時間と余裕さえあれば、私がやる理由は全くないです。すごく、大変だと思うかもしれませんし、遅くまで残業して凌いでいる30-40代では、なかなか難しいものがありますが、私が今の様になったのは、否応無しに40代でそれをやらなければならない環境になったという事が大きいです。はっきり、会社にも共働きと育児の状況を伝え、理解してもらい、できるだけ定時に上がることを許してもらいました。妻には海外を含め一切の出張、一切の残業を断らず、安心して働いて良いと伝えました。むしろ、色々、仕事を選んで不平不満を言う様ならば、みっともないので、会社を辞めて欲しいと言うつもりでした。それは会社に貢献したいという高い志に反するからです。会社も女性活躍とか格好の良い事を言っている建前、じゃあ、お前はクビだともいえず、困惑したと思います。もし、母の申し出に従い、私もめちゃくちゃ残業しまくって、家庭を放置し、全部の家事をやってもらっていたとしたら、おそらく、今、70代後半になってしまった母には相当な負担を強いてしまうことになったのではないか?とも思うのです。妻は私の様に会社と家庭をこなせるほど、器用ではなく、なんでもハマってしまう理系の性格です。私とは考え方が違い、会社に貢献することに、生きがいを持って働いている会社人間なので、じゃあ、どこまでやれるか働いてもらうかという感じでした。私より8年ほど後に入社しており、似たような職種でもあるので、危なっかしいところもたまに見えるのですが、しかし、頑張ったことでそれなりの役職も与えらえ、期待通りに貢献していると思いますし、正社員が二人で稼いでいるので生活は豊かな方だと思います。私は会社などに幸福はないと思って生きてきました。全く、妻とは逆の発想で生活が不安だから、安定した企業で好きでもない仕事をして仕方なく働いているのです。従って、会社から管理職のオファーを受けても一切、受けない。人からは、”せっかくのチャンスなのに、なぜ、受けないのか?給与も上がるし、権利も増えるのに・・”と当時は不思議がられました。そう言ってくる人には”チャンス?じゃあ、君を推してやろうか?社長になれると言うならば受けてもいいが、半端に出世して何が幸せなのか?が今だにわからない。それに今の所得で十分、暮らせる。”と言い切ってきました。頑張りたいとか貢献したいとか言っている妻が頑張ればいいのです。両方がそういう事を言っていると、娘は放置され、家庭はもっと荒れていた思います。夫婦というのは上手くできているなと思います。

コロナ禍 飲食店の救済

 このところ、各地で高止まりが続いているコロナ感染者数ですが、さらに悪いことにイギリスでは変異したウィルスまで発生している様子。今日のニュースではイギリスからの日本への入国は制限はかかっているが、香港に帰国した留学生からこの変異ウィルスが発見されたとか。この留学生がすでにこの変異ウィルスをばら撒いていたら、香港からすでに日本に入ってきている可能性もあります。さて、このコロナですが、テレビ報道では”医療崩壊はもう間近。医療関係者はもう限界です。みなさん自粛を。”と医師団が東京をはじめとする首都圏の人々に訴える映像が流れたかと思えば、その呼びかけによって、自粛している様には見えない街の映像も同時に流れています。また、Go To禁止令が出されたことで観光業や飲食業の方々の落胆し、失望した姿が流れている事もありました。今の時代は新聞やTV以外にネットがありますので、ここにも様々情報があり、その中でもTV以上に過激かつ刺激的な映像が流れることがあるYOU TUBEでは”実はコロナはただの風邪か、悪く見積もってもインフルエンザと同じで、ウィルスが粘膜に付着しているから陽性とし、発症していない人までカウントすれば風邪だってこれ以上の感染者数になり、同じく、三密の中で流行していく。また、基礎疾患のある人や老人から死んでいくというのも必然であり全く同じ。違うのは未知の部分が多く、信用できるワクチンがまだ完成していない事”と楽観的な意見を主張する人もいます。ここ長崎でも日々、0人か一桁の感染者数だったものが、ここにきて30人近くの感染者数にまで増えており、やはり、拡散してきたなという感じなのですが、これが死をもたらす病なのか?というのは、身近に感染者がいない為、よく実感できないというのが率直な感想です。50代の私でも地方にいれば、この程度なのだから、そりゃ若い人に自粛せよと言っても、自分達の生死に直結していなければ、普段通りに行動すると思うのです。菅政権になってから特に経済を回すことの方を優先してきている様に思えるのですが、自粛してくださいの結果がこれです。ちょっと考えて見ればわかる話であり、自粛って自粛であり、罰せられないのだから、特に飲食業は従わない人が出てきます。従わない人の暮らしぶりが特にコロナにも感染せず、良ければ、自分だけが貯蓄を食い潰している状態を真面目に自粛しているのは馬鹿らしいと感じ、さらに従わない人が増えます。そうやっていつまで経っても、普通に営業していれば人は集まります。そこでクラスターが発生し、たちまち、病院が忙しくなります。コロナを優先して受け入れている病院であっても、限られたスタッフでコロナではない重篤な患者さんも診察し、手当をしているわけで、医療現場は逼迫し、医療ミスも増える可能性があります。つまり、救える命が救えないという事になります。感染者が増え、死者や重症者が増え、コロナも収まらないならば、結局、経済も回せないです。つまり、”全国の感染者が一桁になるまで、一旦、経済を止めて、入国も出国も禁止し、それによって稼げない人の生活を政府がまずは1年間保証する”以外にないと思います。例えば、4人家族の1世帯に毎月30万円配ったら、国が破綻するのでしょうかね?日本の世帯数を6,000万世帯としましょう。このうち人を集める場所で仕事をしている世帯を1割としても600万世帯です。1ヶ月間に1.8兆円、1年間で21.6兆円が必要です。日本の飲食店の店舗数は67万店らしく、そこで働く人は437万人というデータがあるので、もう少し減るのかもしれませんが、国の年間予算は102.7兆円ですから、これを1年間だけ143.3兆円にするだけです。もちろん、コンビニや材料を売る市場などは対象外。人が集まるといっても長く三密状態にならない場所は外します。ファストフード、カフェ、レストラン、飲み屋等であり、その中でも出前で凌げる店にはこの30万円を審査の上、支給せず、営業を許すかわり10万円以下の助成金を渡す方針にしても良いのです。まず、一旦、止めて、自己申告してきた人を審査にかけて支給とすれば良いのではと思います。落ち着いてきたら、経済を回すに変えなければ、あまりにも半端すぎます。

限界!それは、あなた次第

 無理をすると、明日どうなるかわからないので、今日は安静にしておくという考え方はいつの間にか、だんだん私の心を支配していきました。確かに40歳手前あたりで、仕事で無理をして肺を患い手術を要する入院をしましたので、それ以来、タバコもやめ、無理をしないという事を肝に銘ずる様になったのです。しかし、いくら安静にして備えておいても、朝、目が覚めると快調な日もあれば不調な日もあり、不調でもどうにかなるさと走りに行くとその不調さが和らいでいる場合もあります。さっきまで何もやる気が起こらなかったのに、新しい手帳や万年筆などを買うと、何かやる気が湧いてきて、途端に行動的になったりもします。一見、疲労が原因と思えるこの状態は、どうも脳の前頭葉の老化が原因である場合が多い様です。確かに何事にも興味が無くなりワクワクしないから活力が湧いてこない、逆に数少ないがたまにワクワクすることがあれば元気になるというのは脳が感じることであり、理に叶っています。筋トレなども同じで”もう、無理、ここが限界だ”という苦しさも、脳の仕業である場合が多く、通常30回しかできない腕立伏せが気の持ち様であと10回、あと20回と、どんどん増やせる場合がありますし、体感したこともあります。こう考えると”自分は50歳も過ぎているのだから、もう無理はできない。こんなことができなくても、おかしくはない。”と思うからできないのであって、”人生は200年であり、まだ1/4しか生きていない。60歳で定年?冗談じゃない。最低でも100歳まで、今のままフルスロットルで働くさ”と豪快に笑っていれば、できることも増えてくるのではないか?とも思うのです。限界は結局、その人がそれまでと思えばそれまでであり、いくらでも気の持ち様で引き伸ばせるが、一方で何が幸福なのか?は別問題だと思います。これはよく矢沢永吉さんがおっしゃっていますが、”まだまだ、走れるはずの20代がゆったりと老成していたり、自分の様なおじいさんがバリバリのRockをやっているのは、全て幸福感によるもの。自分はこれが気持ちいいからやっていて、人の為にやっているわけではない。色々な価値観や幸福感を持つ人がいるから人生は面白い。”という、彼の至言に尽きると最近は思います。何が欲しいか?それは、迷う事なく”気力”です。見てくれだけの若さでも、富でも、地位でもない。それは後からついてくるものであり、まずは、”よし、やってやるぞ”という気力なのです。それで突っ走ったら、とんでもない事が待っていた。コテンパンにやられた。そんなことはいくらでも若い頃あったはずです。とにかく、嘘でもいいので、自分に暗示をかけてでも気力の火を燃やし続けたいと思います。

全力疾走か全力失速か?

 若い頃はあまり後先考えず、何事も全力でやっていた様に感じます。その若い頃というのは、きっと70代の両親達にとっては50代の私の年齢さえ若い頃というのかもしれませんし、私から見れば20代から30代を意味しています。なぜ、10代を含めないのか?と言われそうですが、10代というのは記憶も曖昧になってきているというのもあるのでしょうが、自分がどこに向いて走っているのかすらわからない、迷走状態であり、若いというよりは幼いというのが正しいし、1つ間違えば、今ならば確実に少年院送りになりそうな世界に足を踏み入れたこともあります。結果が出せたかどうかは別にして、何か真剣に取り組んで頑張った時期というのが私の場合は大学院入学〜会社で管理職になる手前迄の15年間で、自分の部下に現役の仕事を渡し、部下を管理することに終始した40代は”部下を押し退けて全力でやり過ぎる事も悪”という考え方に、だんだん、変わってきました。一言で言えば、年甲斐もなく、ガムシャラにやって見せつける事が何だか恥ずかしいという感じですかね。50代になって、その管理職も40代に譲ると、今度は部下だった40代に仕えるシニアプレイヤーに戻ります。人を使う事に慣れ切った自分を鼓舞して、自分で何かOutputを出すという仕事になるわけですが、若い頃の様に叱咤激励してくれる人もいません。つまり、私にやれそうな仕事を上司が流してくるのですが、それを好きな様に捌いてくださいと原材だけを与えられる様な感じですかね。上司は元部下ですから、私の好みを知っているので、間違っても、アジフライを作るのが得意な私に、ヒレ肉を持ってくる様なことは流石にありません。ですが、アジフライはアジフライであり、それ以上の物は作り様がありません。結局、頑張った15年で蓄積してきた料理しか、並べることはできないわけです。この料理が、長年、需要のあるロングセラーばかりならば良いですが、だんだん、飽きられるのが普通の流れだと思います。仕事に話を戻せば、この料理の例えは、仕事の成果だけではなく、成果を出すまでのプロセスを含めて例えているわけで、会議の中でその人の発する言葉や態度も含め全てということであり、その人自身が飽きられるという事にも繋がっています。過去の栄光に縋る武勇伝ばかりを語り始めると、そろそろお引き取り頂きたいと思われる様になるのですが、元部下の上司はそれをストレートには言えない。自分が管理職の頃に覚えがありますが、やはり、怖いし、恩もあるし、申し出憎いわけです。”まだまだやれる”と信じ切っている心身共に若い老兵は特に難しい。その人ができる範囲において”まだまだ、いける事”はわかっているのですが、その範囲が限定的で幅がなく、あれこれ仕事を振れないことや、考え方が頑固過ぎるところ、その為に周囲の若い世代との間に不協和音が流れチームワークに問題が生じており、今までチームの結束力で生まれていた成果が減ってきていることなど、この人の”まだまだ、俺はやれる”が組織的には負の方向に働いていることを自覚してもらう必要があります。これを自分の置き換えると”扱い辛い老兵になる前に去る”か”多少、自分にストレスをかけてでもEverything is OKで受け入れて慣れない仕事もこなす”かのいずれかしかないです。前者を選択すれば、完璧に家事をこなせる主夫道に身を置き、働く妻を全力で支える。後者を選択した場合、今までのカードは使えないわけなので、新しいスキルを身につける為にあの15年間の様に、全力で走るしかないです。老害だけは何としても避けたいと思う今日この頃。